(コース概要)
(「日向薬師」バス停から一の沢・旧浄発願寺跡(奥の院)を経由し、「梅の木尾根」を下り再び「日向薬師」バス停へ)
・ 「日向薬師」バス停を起点として日向川沿いを遡り、一の沢・旧浄発願寺跡(奥の院)を経由して梅の木尾根へと向かい、十字路峠へ下ると日向薬師・宝城坊を経て「日向薬師」バス停へと戻ってくる約3時間の散歩です。
前半は、日向川を遡り、途中で「大友皇子陵」、「石雲寺」を訪ね、日向川の源流部である「一の沢」から旧浄発願寺の参道跡を辿って「旧浄発願寺・岩屋」へと登って行く。
後半は、「旧浄発願寺・岩屋」から「梅の木尾根」を目指して急斜面を登り、「梅の木尾根」から「十字路峠」へと下って行く。
「十字路峠」からは、「平成大修理」で修復された「宝城坊・薬師堂」を参詣し、日向薬師・参道を経て「日向薬師」バス停へと戻ってくる。
(コース)
1.「日向薬師」バス停 →(60分/2.5㎞)一の沢橋
・「日向薬師」バス停 → 薬師林道分岐 → 日向山荘 → 大友皇子陵 → 石雲寺 → 一の沢橋
2.一の沢橋 →(85分/2.5㎞)十字路峠
・ 一の沢橋 → 旧浄発願寺・岩屋 → (小尾根取付き) → 梅の木尾根・分岐 → モミの木ピーク → 弁天の森キャンプ場・分岐 → 十字路峠
3.十字路峠 →(35分/1.5㎞)「日向薬師」バス停
・ 十字路峠 → (日向・梅園) → 日向薬師 → 参道 → 「日向薬師」バス停
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(所要時間)・約3時間/歩行距離:約6.5km (時間/距離ともに参考程度とする)
(注意事項)
・梅の木尾根では森林作業者用道に迷い込まないこと。
・野生動物(サル・イノシシ・クマなど)及び、冬期以外は山ビルに注意。
・アクセス:日向薬師(伊勢原駅から「日向薬師」までバス)
(バスの時刻・料金等は神奈川中央交通HPで確認して下さい)
(動 画)
●YouTube 日向・梅の木尾根散歩(https://youtu.be/iBr1sGn23ho)
(日向・梅ノ木尾根散歩みち)
日向・梅ノ木尾根散歩/独案内(2016/12)
1.起点・「日向薬師」バス停から一の沢へ
■ 出発は「日向薬師」バス停から、日向渓谷・一の沢(旧浄発願寺・奥の院)を目指しバス停前の道を左へ、山里の小さな棚田の中の緩やかな坂道を上って行く。
周辺は、秋には真っ赤な彼岸花(曼珠沙華)の花で彩られる。
●(「日向薬師」バス停)
(「日向薬師」バス停) |
●(「日向薬師」バス停から左の坂道を上り、浄発願寺へ)
(「日向薬師」バス停から浄発願寺へ) |
●(浄発願寺・道しるべ)
(浄発願寺・道しるべ) |
●(棚田の残る山里の道)
(棚田の残る山里の道) |
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■ 坂道を上ったところで、右側から「薬師林道」が合流してくるが、ルートは「日向林道」へこのまま直進する。この道は、大山山頂へ至る「日向薬師登山道」でもある。
●(薬師林道・分岐、直進)
(薬師林道・分岐) |
●(薬師林道・分岐)
(薬師林道・分岐) |
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■ 「薬師林道・分岐」を過ぎると、ほどなく左に日向川に架かる「明神橋」が見えて来る。 源頼朝も通ったと言う「古道・日陰道」への分岐で、橋のたもとに「日陰道」の表示板が立っている。
「日陰道」分岐を過ぎると、左に浄発願寺の「三重塔」が見えて来る。
●(「日陰道」・分岐)
(「日陰道」・分岐) |
●(浄発願寺)
「無常山 浄発願寺(天台宗・弾誓派本山)」と言い、慶長13年(1608年)、木喰僧・弾誓(たんせい)上人により開山される。
もとは、ここより1kmほど上流の「一の沢」の山中にあったが、昭和13年の台風による山津波で崩壊、その後の復旧は困難であるとして、昭和17年(1942年)この地に移転し、再建された。旧浄発願寺跡は現在、「浄発願寺・奥の院」と呼ばれている。
(浄発願寺) |
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■ 浄発願寺を過ぎ、「日向山荘」の手前の丁字路を左折、日向川に架かる橋を渡り、右の林の中に入って行くと、「大友皇子陵」と伝わる五層塔がある。
●(大友皇子陵・入口)
(大友皇子陵・入口) |
●(大友皇子陵・道しるべ)
(大友皇子陵・道しるべ) |
●(伝・大友皇子陵)
飛鳥時代、大友皇子(おおとものおうじ)は、「天智天皇」の第一皇子として生まれ、父である「天智天皇」の崩御の後、「弘文天皇」(即位出来なかったと言う説もある)として皇位を継ぐが、天皇の後継をめぐり対立する叔父の「大海人皇子(後の天武天皇)」による反乱、いわゆる「壬申の乱(じんしんのらん)」(672年)により自害したと言われている。
その御陵は、滋賀県大津市御陵町の「長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)」とされているが、壬申の乱に敗れた後、妃や子女を伴って密かに東国へ逃れたとする伝説もあり、愛知県(岡崎市小針町/西大友町)や千葉県(君津市・白山神社古墳)、神奈川県(伊勢原市日向)などには、大友皇子の御陵だという伝承が幾つか残されている。
大友皇子の墓とされる五層塔は、鎌倉から室町時代初め(14世紀前半)頃に造られたものと考えられ、貴重な歴史的資料として伊勢原市の重要文化財にも指定されている。
(伝・大友皇子陵) |
●(伝・大友皇子陵の五層塔)
大友皇子陵は、ここより少し遡った所に建つ「石雲寺」の境内となっており、石雲寺により維持管理が行われている。寺の伝承では、大友皇子を開基としており、現在も10月第4日曜日には墓前において供養祭が行われている。
(伝・大友皇子陵の五層塔) |
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■ 大友皇子陵から再び「日向林道」へ戻ると、「日向山荘」前を過ぎ、杉林の道を上って行くと右側に「石雲寺」が見えて来る。
●(日向林道・石雲寺入口)
(日向林道・石雲寺入口) |
●(石雲寺・道しるべ)
(石雲寺・道しるべ) |
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●(石雲寺・山門前)
「雨降山 石雲寺(うこうざん・せきうんじ)」という曹洞宗の寺で、奈良時代、霊峰大山の中腹に華厳法師が紫雲に導かれて開いたと伝わる古刹である。
寺の山号が大山にある「大山寺」と同じで、寺伝によれば今からおよそ千三百年前の養老2年(718)、開祖である華厳妙瑞(けごんみょうずい)法師が、諸国行脚の途中、日向の山中の渓谷に紫雲を認め、不思議に思った法師が、河原に降りると周囲3丈(約10メートル)程の石の上方に 紫雲がたなびいていて、法師は一心に仏・菩薩の名号を唱えたところ、仏・菩薩の御影が現れたということです。
里人に尋ねると、その昔、壬申の乱に敗れた大友皇子が近江国から逃れ住まわれ、この地で亡くなり、 従者も殉死したという。 哀れに思った法師は精舎を建て、皇子の菩提を弔ったと言う。
皇子の墓所は当初、述言により松を植えただけのものであったが、鎌倉時代になって従者の子孫が石で五重の塔を建てたと伝えられている。
その後、室町時代中期の長禄年間、天渓宗恩(てんけいしゅうおん)和尚が曹洞宗の寺として中興開山され、この頃には寺院としての基盤が確立されたとも言われる。
当初の寺院名は「医王山 雨降院」で、後に、開闢(かいびゃく)、すなわち華厳法師がこの地に開山するきっかけとなる縁起に因んで「雨降山 石雲寺」と改められたという。
また、古くは総門下の沢の対岸の場所に位置していたが、後に現在地に移築されたと言われ、古地図には「雨降院跡」と記され、 「皇子の墓地跡」とともに、戦前は宮内省の所領でもあったようである。
●(石雲寺・総門前)
(石雲寺・総門前) |
●(石雲寺・本堂)
現在の本堂は、山林火災で焼失した本堂を、安永4年(1775年)に再建したもので、元々は茅葺きで大山の宮大工により造られたという。
40年ほど前に行われた修繕で屋根は銅板葺きに変更されたが、柱をはじめとした大部分は建てられた242年前の当時のままだという。
(石雲寺・本堂) |
(魚鼓・ギョク) |
可愛い石像 |
●(石雲寺・本堂耐震工事中)
本堂は、来年の開創1300年を前に、現在、耐震改修工事が行われていて、今年(2017年)11月末に完成予定。
本堂は、240年以上前の江戸時代中期の安永年間に再建された当時のままであることから、貴重な建物として耐震改修が施されたうえで外観はそのまま残されることになったようである。
(石雲寺・本堂耐震工事中) |
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■ 石雲寺からは、日向川沿いに「日向渓谷マス釣り場」前の林道を上って行く。
日向川に架かる「梅ヶ尾橋」を渡ると、道の傾斜も徐々に急になる。日向川の渓谷に建つレストラン&日帰り温泉「クワハウス山小屋」の前を通り過ぎたところで、右下の渓谷に下る歩道が分岐する。
日向川の渓谷に架かる橋が「一の沢橋」で、橋の入口には浄発願寺の案内板が立っている。
●(クワハウス・山小屋を過ぎた右側に、一の沢橋へ下りる歩道が分岐)
(クワハウス・山小屋) |
●(日向林道から右へ、歩道を下ると「一の沢橋」)
(日向林道・一の沢分岐) |
●(「一の沢橋」と旧浄発願寺跡の案内板)
(一の沢橋) |
2.一の沢から十字路峠へ
■ 日向川に架かる「一の沢橋」を渡ると平坦な広場に閻魔堂(まがいどう)跡があり、今は東屋風の屋根の休憩所となっている。その右奥には尾張徳川家三代綱誠(つななり)の正室・瑩珠院(けいしゅいん)の遺髪を納めたと言われる大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)と数基の無縫塔(むほうとう)が並んでいる。
さらに、広場の右奥に「山門跡」があり、ここから浄発願寺・奥の院への参道の上りとなる。(冬期以外では、ここからは山ヒルに注意)
(旧浄発願寺・山門跡) |
(宝筐印塔) |
(地蔵尊像) |
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■ 山門から「一の沢」の沢沿いに参道跡を約200~300mほど登った所に旧浄発願寺の堂宇跡(本堂や庫裡などの建物が建っていた跡)がある。
途中、往時を偲ぶ参道の石段跡や石仏・石塔などを見ることができるが、山津波によりまだ発掘されずに、谷に埋もれたままの石造物も多数あるとも言われる。
ただ石仏のほとんどが頭部を破損しており、山津波により失われたものか、また明治維新後の廃仏毀釈により人為的に破壊されたものかは不明であるが残念な思いがする。
当時、廃仏の波はこの大山山中にもおよび、大山寺を始め多くの寺院の建物、仏像、石仏、仏具、経典、文化財とも言える資料などが破壊、放出され、ここ浄発願寺でも寺は一時衰退し、その存続さえ危ぶまれた時期もあったと言われる。
その後、徐々に復興されてきた矢先、明治期の廃仏毀釈という荒波でもなんとか残った建物も、昭和13年の台風による山津波と言う自然災害には勝てなかったのか。
それでも、民衆による信仰心が復興の力となり現在、下流に浄発願寺は復興された。
昭和17年と言えば、日本が太平洋戦争中の物資も乏しい頃である。
江戸時代、罪人53人が造ったと言われる「五十三段の石段」の石段を上ると、杉林の中に旧浄発願寺の本堂跡がある。 建物跡もなく、僅かに礎石が残るのみである。
●(参道跡)
(参道跡) |
●(五十三段の石段)
本堂へ登る53段の石段は江戸時代、4世・空誉上人が幕府から罪人53人をもらい受けて一人に一段ずつ築かせたものと伝えられ、これ以降、放火と殺人を犯したもの以外は、ここに駆け込めばその罪を許されたという。(現在の石段は平成3年(1991年)に発掘、再建されたもの)
(五十三段の石段) |
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●(旧浄発願寺・堂宇跡)
貞享2年(1685年)、4世・空誉上人によりこの地に本堂が建設されたが、その後火災により焼失した。 文化元年(1804年)22世・速阿上人により再建、本堂・庫裡などを合わせ約230坪あり、特に陰暦10月、三日三晩をかけて行われる「御十夜法要(おじゅうやほうよう)」では、本堂、庫裡に多くの信者があふれ、鎌倉の「光明寺(こうみょうじ)」・平塚の「海宝寺(かいほいじ)」と合わせ「相模の三大十夜」と呼ばれるなど、昭和の初期まで盛大に行われていたと言われている。
江戸時代には代々幕府や公家、諸大名の手厚い庇護をうけ、山岳修行者の行場として栄え、また、男性で殺人や放火を犯した者以外で罪を犯した者がこの寺に入り、その罪を悔い改めるなら罪を許されたことから、「男の駆け込み寺」とも呼ばれていた。
また、寺が「一の沢(日向川の源流部)」に位置していることからも、周辺地域の雨乞いの寺としても崇められていた。ちなみに、この地方では単に「一の沢」と言えば、「浄発願寺」を指す言葉として使われていた。
昭和13年(1938年)の山津波(台風による土砂崩れ)により倒壊、この場所での再建は不可能とし、昭和17年(1942年)、一の沢(日向川)の下流、約1kmほどの場所に移転、再建(現・浄発願寺)されている。現在この場所は、浄発願寺の「奥ノ院」と呼ばれている。
(旧浄発願寺・堂宇跡) |
●(旧浄発願寺・岩屋への参道跡)
(旧浄発願寺・岩屋への参道跡) |
●(子安地蔵尊と鐘楼跡)
(子安地蔵と鐘楼跡) |
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■ 「堂宇跡」の左にある木橋を渡り、100メートルあまり急斜面を登ると、弾誓上人が修行したという岩屋がある。
●(旧浄発願寺・岩屋跡)
木食僧の寺としても知られた浄発願寺は、慶長13年(1608)尾張国(愛知県)出身の弾誓(たんせい)上人によって開山、徳川家康から日向山中に165,000坪(約544,500平方メートル)もの広大な境内地を与えられ、その境界には一定の間隔で塚が築かれていたという。
岩屋の左右には歴代の住職などの数多くの無縫塔(むほうとう・卵を立てたような円柱形の僧侶の墓)が立ち並び、また岩屋内部には、瑩珠院(けいしゅいん・尾張3代徳川綱誠夫人)や佐竹氏・藤堂氏といった大名の墓石や仏塔・石塔があり、神聖な場所として一般人の立ち入れない聖域であった。(岩屋前の歴代住職の墓石は、平成3年春の発掘で復元される)
この他に、箱根・塔之沢にある阿弥陀寺にも弾誓上人が修行したと言う岩屋があり、その生涯を京都・古知谷の阿弥陀寺にある岩屋で終える。
今も、岩屋上部の岸壁には、「南無阿弥陀仏」と刻まれた文字が残っている。
(旧浄発願寺・岩屋跡) |
●(旧浄発願寺・岩屋跡)
(旧浄発願寺・岩屋跡) |
(旧浄発願寺・岩屋跡) |
(旧浄発願寺・岩屋跡) |
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■ 道は、岩屋前の広場から左奥の斜面を登り、林の中の急斜面をトラバース気味に横切ると、向いの小尾根に取付く。
ここで道は、「日向薬師」まで2.4kmの道しるべを見ながら小尾根に沿って直登する。
●(急斜面・トラバース)
(急斜面・トラバース) |
●(小尾根・取付き)
(小尾根・取付き) |
●(小尾根・直登)
(小尾根・直登) |
●(小尾根・直登)
(小尾根・直登) |
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■ 小尾根を300mほど直登すると、途中に「日向薬師」への道しるべがあり、尾根道から右へ斜面を横切るようにして登って行くと、梅の木尾根に出る。
(梅の木尾根への道しるべ) |
●(梅の木尾根へ斜面を横切るようにして登る)
(梅の木尾根へのトラバース) |
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■ 梅の木尾根からは、林業作業者用経路の踏跡に迷い込まないよう注意して、尾根筋を沿うようにして下って行く。
●(梅の木尾根・分岐)
(梅の木尾根・分岐) |
(梅の木尾根・分岐) |
(梅の木尾根・分岐) |
●(小ピーク)
(小ピーク) |
●(尾根道)
(尾根道) |
●(モミの木ピーク)
(モミの木ピーク) |
(道しるべ) |
(モミの大木) |
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■ モミの木の大木があるなだらかなピークを過ぎると、フィックスロープ(固定して張られたロープ)の張られた急斜面を注意して下る。「弁天の森キャンプ場・分岐」を過ぎると、十字路峠まではもう少し。
●(急斜面・フィックスロープが張ってあるが注意して下る)
(フィックスロープ) |
(フィックスロープ) |
●(弁天の森キャンプ場・分岐)
(弁天の森キャンプ場・分岐) |
●(十字路峠)
(十字路峠) |
3.十字路峠から「日向薬師」バス停へ
■ 十字路峠からは、右へ「薬師林道」を経て日向薬師へ下る。
●(十字路峠・道しるべ)
(十字路峠・道しるべ) |
●(薬師林道への下山道)
(薬師林道への下山道) |
●(下山道・道しるべ)
(下山道・道しるべ) |
●(日向の梅園)
(日向の梅園) |
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■ 日向の小さな梅園の横を下り、駐車場となっている「薬師林道」を横切ると、日向薬師への参道に入る。売店前(平日は休みのこともある)から「宝物殿」を通り抜け、本堂・薬師堂が建つ境内へ。
●(薬師林道)
(薬師林道) |
●(日向薬師・売店)
(日向薬師・売店) |
●(日向薬師・薬師堂)
寺伝によると、霊亀2年(716年)、行基の開山と伝えられる。かつては「日向山・霊山寺(ひなたさん・りょうぜんじ)」と称し、山中に13坊を有する薬師信仰の霊場として、関東地方でも有数の古刹であった。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、建久5年(1194年)、源頼朝が娘の病平癒祈願のため自ら「日向山」へ参詣したとの記載もある。
明治維新の廃仏毀釈により多くの坊舎が失われ、本堂(薬師堂)、鐘堂、仁王門などをわずかに残すのみとなった。現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいる。
なお、本堂の薬師堂は老朽化と虫害のため、2011年より約6年を掛けて350年振りにして3回目となる「平成の大修理」が行われ、平成28年(2016年)11月に完成、落慶法要が行われた。
(日向薬師・薬師堂) |
●(日向薬師・鐘楼)
(日向薬師・鐘楼) |
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■ 本堂・薬師堂からは、参道の階段を下り、杉木立に囲まれた、歴史を感じさせる参道を下って行くと、仁王門が見えて来る。
(日向薬師・参道) |
●(日向薬師・仁王門)
(日向薬師・仁王門) |
(仁王像・阿形) |
(仁王像・吽形) |
●(日向薬師・仁王門)
(日向薬師・仁王門) |
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■ 仁王門を下り、山門を抜け車道に出ると、右にゴールとなる「日向薬師」バス停がみえる。
●(日向薬師・山門)
日向薬師・山門 |
●(「日向薬師」バス停へ)
(「日向薬師」バス停へ) |
●(「日向薬師」バス停)
(「日向薬師」バス停) |
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